古くから伝わる民間信仰で「お百度参り」というものがあります。
お百度参りとは、「神仏に祈願するために、同じ神社に100日間参拝すること」です。
一度の参拝で終わらせるのではなく、何度も参拝することで心願が成就するようにと願って行うものです。
雨の日も、風の日も欠かすことなく続けることで心願が成就するといわれています。
先日お百度参りを達成しました。人々の祈りは届く、と思うに至りました。
その中で起きたこと、お百度参りについて思ったことを書いています。
■目次
お百度参りの方法
「お百度参り」には2種類方法があります。
①100日通う方法
②1日で100日分を済ませる方法
②は通常は100日通うところを、一日で済ませる簡略化したものです。
百度参りの方法は、社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す。俗にこれを「お百度を踏む」という。
社寺の入口近くに、その目標となる「百度石」という石柱が立てられていることがある。回数を間違えないように、小石やこより、竹串などを百個用意しておいて参拝のたびに拝殿・本堂に1個ずつ置いたり、百度石に備えつけられているそろばん状のもので数を数えたりする。
百度参りは人に見られないように行うとか、裸足で行った方がより効果があるなどとも言われる。
wikipedia参照
(百度石)
お百度参りは、氏神様で行うと良いとされています。他にも、お百度参りで有名なのが大阪の石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)通称「石切さん」です。
百度石から本堂まで、行列をなしてぐるぐるとお百度参りをする人々の写真を見ました。
子供の病気や身内の人の病気治癒を祈願して行う人が多いそうです。
石切劔箭神社のHPにも、お百度参りの正しい方法について書かれています。
石切劔箭神社ご参拝の手引き
石切劔箭神社 御百度参りについて
百回でなくとも、ご自分でお決めになられた回数で結構です。
大切なのは神様に願いが届くよう一心にお参りすることです
ご参拝いただければ、その熱心な様子に胸を打たれるでしょう。
お百度参りをしたあと、この言葉の意味がよくわかるようになります。
ここから先は私の体験談です。
なぜお百度参りをしようとしたのか?
まず、なぜお百度参りをしようと思ったのかについてですが、きっかけは近所の神社に「手術の成功」をお願いしたことでした。
私は6月初旬に病気の手術をしました。
手術しないといけないと分かってから手術をするまでの2日間、私に出来る事は何もありませんでした。
週末と重なったので、普段そうしているように掃除機をかけ、ご飯を作って食べ、洗濯物を干し、本屋に行き、そして神様にすがったわけです。
手術が無事終わってお礼参りをした時、ワラをも掴む気持ちですがりついたのに、終わった途端にご無沙汰になるのも虫が良い気がしたので、100日通う事にしました。
これが私のお百度参りの経緯です。
私の場合は願掛けではなくすでに叶った後だったので、引き続き近所の神社に100日通う方のお百度参りをすることにしました。
手術が成功した私の次の願いは「命を有効に使って貰うこと」でした。
その道しるべになるお導きをお願いすることにしました。
お百度参り、達成したけど、していないワケ
実は、お百度参りを達成したけれど、正式には達成できていません。
手術後は療養のため、家にひきこもってブログを始めることにしました(このブログです)。
6月 お百度参りを始める
7月 ブログを始める
8月 10年勤めた会社を辞める
9月 広島→千葉に1ヶ月移り住む
お百度参りと人生の転機が見事に重なりました。偶然ではない気がしています。
会社を辞めるか辞めないか、いつも神様に相談していました。
お百度参りも残り15日というところで広島を離れることになり、100回来ようと決めた神社の方へのお百度参りは続けられなくなったのです。
なので、千葉の住まいの近所にある神社でお百度参りを続け、達成したことにしてこのレポートを書いています。
お百度参りに期待したもう一つの効果
お百度参りを続けた理由はもう一つありました。
私は決めたことが続けられない。すぐに結果が出ないと嫌というタイプ。
仕事も、恋愛も、根気がいることです。だからどれも良い結果が出ていません。
せめてこれだけは達成しようという決意もあって始めてみました。
しかし、100日参拝を続けるのは、想像していた以上に大変でした。
生きていればいろんなアクシデントがあります。
お百度参りは簡単なことではなかったエピソード①
当たり前ですが、雨の日もあれば風の日もあります。
季節は6月、梅雨。
避難警告のアラームが鳴り響くほどの土砂降りの夜もありました。
もちろん参拝に行きますよ。
その日は頑張った自分を褒めてあげました。
仕事で疲れて帰った日、うっかり夜の2時まで仮眠をとってしまった時もありました。
もちろん参拝に行きますよ。
丑三つ時の人の気配のない神社は不気味です。
お百度参りは簡単なことではなかったエピソード②
お百度参り最大の危機が、花火大会の帰りの超満員の電車の中で脳貧血になってしまい、ブラックアウトを起こした夜です。
もちろん参拝に行きました!!
視界も不明瞭、頭も足もふらふらで、神社から家までがやたら遠く感じました。家に着いた瞬間、倒れ込むように横になりました。
これからお百度参りをしようとする人へのアドバイス
今から100日始めようとしている方には早起きして朝の参拝を日課にされることを強くおすすめします。夜はアクシデントや誘惑が多いです。
通勤時のルートを変更して神社を通り道にすれば良かったのですが、早起きすることが億劫でお百度参りはいつも帰宅時でした。
最善の結果は訪れると確信しています
これは参拝を続けて感じたことなのですが、自分と同じように神様に「祈り」を捧げる人の姿に強く心を動かされる事が何度もありました。
さきほどご紹介した、石切劔箭神社でも
”ご参拝いただければ、その熱心な様子に胸を打たれるでしょう。”
と書かれていましたが、これは本当です。
人の一番美しい姿は「祈りを捧げているとき」だと思ってます。
私が通っていた広島にある三篠神社(みささじんじゃ)は、500年の歴史があるのですが、常に参拝客で賑わっているような神社ではありません。どちらかといえば人気がなくひっそりとしていることが多いです。
たまに人がいると同志を見つけたようで嬉しくなり、彼らの後ろ姿をじっと眺めていました。
肩をすくめて頭を垂れている彼らの姿はちっぽけです。
人気のない神社で誰かが見ているとも知らずに、大きく柏手を打ち、大きな力にすがりつく姿は、微弱でした。
でも、その姿に思わず手を合わせてしまう自分がいました。
「この人たちの願いが、叶わない訳がないよなあ」
確信めいたキモチが湧いてくることがありました。
あなたの願いが叶わないのは、叶わない必要があるからだと。
時に、簡単に叶えさせてあげたくないようなキモチにもなりました。
辛さや苦しさという「財産」を与えたくなりました。
神様のキモチなど、わかるはずもないのですが。
この記事を見ていただいている方の中には、お百度参りに挑戦してみようと決意を固めようとしている方がいるのではないでしょうか?
正しいやり方を知りたいとか、ほんとに効果があるのか気になったとか。装束でやった方がいいのかとか色々迷われていることがあると思います。
方法、やり方、関係ないと思います。
私の祈りは、今日あった出来事の報告になったり、時に問いかけをしてみたり、再びお導きをお願いしたりとかなりテキトーでした。
正直に書くと、広島にいなかった2回、お百度参り出来ていないんです。実際は100日連続ではなく分断されています。
それでも私の場合、効果はあったようです。あったと思っています。
お百度参りの間に、10年勤めた会社を辞めました。
この先に、私の願いである「命を有効に使って貰うこと」が実現できると今は信じています。
100日の間に人生はめまぐるしく変わりました。でも、人生を変えようと行動をしたのは自分です。
100日の間にすごいことが起こった訳ではなくて、100日をかけて少しずつ内面で変化が起こったと思っています。
だから参考にならないかもしれないです。
100日通った人間が、神様に祈ってもどうにもならないものはどうにもならないのだと思っているのだから。
「神よ 願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」
この言葉は、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)によって書かれた有名な祈りです。
どうにかなることはどうにかなるし、どうにもならないことはどうにもならない。
変えられることに対してやれることを精一杯やるだけ、という心境に今はなりました。
もし次お百度参りをすることがあっても、100日は通わないです。通う必要はないです。神様はいつもそばにいて最善の道を照らしてくれている気がしているので。
日々の中、心願に対して、
・どれだけまっすぐに向き合っているか
・願いを叶えるためのなにかをしているか
心の在り方と、行動の方が大事です。
脳貧血でふらふらになってまで通わなきゃ願いを叶えてやらない神様って変じゃないですか?笑
最後に
もし、今これを読んでくれているあなたがどうしても叶って欲しい心願があって、「やってみたいけどどうしようか」と迷っているのだとしたら、私はやってみることをおすすめします。
やってみたところで得るものはあっても(私はありました)失うものは何もありません。
百回でなくとも、ご自分でお決めになられた回数で結構です。大切なのは神様に願いが届くよう一心にお参りすることです
できる限りでいいのだと思います。私はそう思ってます。
どうかあなたの一心が、神様に届きますように。